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よくある質問

森田正馬とはどんな人だったのですか?

 1874年(明治7年)~1938年(昭和13年)享年64歳
1902年、東京帝国大学医科大学卒業。慈恵医科大学名誉教授。森田療法の創始者。

  森田正馬(まさたけ、通称はしょうま)は高知県香美郡野市町に生まれ、生家は農家でしたが武士と同様に帯刀を許される郷士でありました。のちに東京帝国大学医科大学を卒業し、独自で科学的な精神療法を生み出したほどの俊才ですが、少年時代はむしろ落ちこぼれと言っても良いようなこどもでした。4、5歳の頃にはすでに読み書きが出来たということですから優秀だったことは間違いないと思いますが、父親の正文が小学校教員をしており、その教育が厳しかったことから小学校には行きたがらなかったと言います。父の厳しい教育のエピソードとして、漢文が覚えられずに居眠りを始めた正馬を深夜に外に連れ出して徹夜したことがあり、のちに正馬はこれを全く有害無益なことだったと批判しています。この頃から父親との間に強い心の葛藤があったであろうことが窺われます。嫌々ながらの勉強で成績は良くなかったのか、父親は正馬への教育熱を失って、中学へはすぐに上げませんでした。正馬もさほど向学心が無かったものと見えて中学校には2年遅れで入学しています。しかし、ここでも成績不良と病気で2回落第し、旧制の第五高等学校に入学したのは21歳のときで通常より4年遅れています。
 中学校時代には常習的な頭痛があったらしく、母から「お前の頭痛は自分で考え出しているようなものだ」と言われ憤慨したことがあります。この頃から神経症の傾向があったのではないかと思われるエピソードです。中学2年生のときには心臓病(実はのちに心臓神経症であったことが分かる)で落第しています。
 中学3年生のときには、家出のような真似をしています。友人と2人で上京し、自力で上級の学校に行こうとします。父親への反発があったようです。しかし、生活に窮したのと脚気に掛かったことで帰郷し父親に詫びて許して貰っています。正馬には屈辱的な出来事であったでしょう。復学はしたものの5年生のときに腸チフスに掛かって落第しています。
 高等学校進学を巡っては医学を学ばせようという父親と工学をやりたいという正馬との間で葛藤がありました。そのとき医学志望者に奨学金を出すと言う人が現れ、正馬はあっさりと医学志望に変更しています。しかし、これは養子になるという条件であったのを正馬は父親に黙って約束してしまったことからひと悶着ありました。この辺りにも父親との強い葛藤が感じられます。結局、父親が学資を出す代わりに従妹と婚約させられることになりました。結果的には正馬は妻と幸せな家庭を築きましたが、彼のように既成概念にとらわれない自由な発想をする青年には何かと不自由なことで窮屈であったろうと想像できます。
 こうして他の学生よりかなり回り道して入学した高等学校ですが、最難関の帝国大学医科大学にストレートで入学しています。かなりの勉強をしたものと思われますが、よほどの高い目的意識が無ければ無理だと思います。しかし、それまでの経緯を見れば医学に対する熱意があったというよりは最難関の試験を突破して父親の鼻を明かしたいという気持ちが強かったのではと想像します。この頃のことを正馬は父親からの送金がしばしば遅れたことを日記に記しただけで余り記録に残していません。
 大学時代には、森田療法の原点になったと言われる有名なエピソードがあります。在学中は寄宿舎にいましたが、ここでも神経衰弱と脚気を患っています。この病気のせいで勉強が思うように進まず学年試験を受けるのを断念しようかと迷っていました。ところが、病気で苦しんでいるにもかかわらず父親から送金がなかなか無かったことから、これを怨み、父親への面当てもあって薬を絶ち死ぬ積りで勉強することになります。ところが予想に反して病気が悪化することはなく、試験も思わぬ好成績を上げることになりました。119人中25番の成績であったそうです。
 正馬はこのことから森田療法の発想を得たと繰り返し紹介しています。神経症者は不快な感情や恐怖心から行動を逡巡してしまい、なかなか行動に移れないものですが、森田療法では、“恐怖突入”と言って、恐怖を感じながら行動することを指導します。正馬は動機が何であれ死の恐怖を感じながらも勉学に打ち込んだことが結局好結果をもたらしたという経験が、神経症改善のヒントとなったのではないかと思われます。
 大学卒業後は一時大学に助手として残りました。このとき文科大学(現在の東京大学文学部)で心理学の講義を受講したり、催眠術を研究したりしています。当時は医学部を出て精神医学をやろうという人は珍しかった時代ですが、心理学や催眠術まで手を広げていたというのは驚きです。正馬という人はよほど好奇心が強い人だったと見えて、興味が湧いたものには色々と手を出しています。
 本業の精神医学では古今東西の学説や理論を熱心に勉強しています。当時旋風を巻き起こしていたフロイトの精神分析についても熱心に勉強していますが最初から眉唾で見ていたようで、結局、これは目的論的で非科学的であり、現実の治療には役に立たないと一刀両断にしています。
 32歳のときに根岸病院の顧問医師になり、収入も安定したのか父親に百円という大金を送って感激させています。父親とはそれまで様々な軋轢や葛藤があり複雑な感情があったはずですが、良くも悪くも現在自分があるのは父親のお蔭であると言う気持ちがあったのだと思われます。恩義は恩義として返すところは、「なすべきはなす」という正馬の律儀で感情に流されない一面を表しているのではないでしょうか。
38歳になると顧問医師の傍ら自宅でも開業しています。このときに初めてみた神経性心悸亢進症の患者を1回の診察で治療に成功しています。ここで神経症治療の第一歩を踏み出したわけです。その後、患者を自宅に入院させるなどして様々に神経症の治療を試みています。
44歳のときに『迷信と妄想』を執筆、出版しています。ここで迷信や妄想の内因・外因を考察していますが、心霊術や天理教・金光教などの新興宗教の研究をしたり、郷里の土佐で犬神憑きの研究をしたりしています。正馬の精神世界に対する広範な知識欲・研究意欲が垣間見られます。
正馬は禅や神道などの精神世界に関わるものに深く関わっただけでなく、柔術、居合、弓、和歌、俳句、三味線、踊り、オルガンなど趣味も多彩でした。とくに有名なのは禅で、著作にもしばしば禅の言葉が引用されています。よく正馬は禅からも学んだと言われることがありますが、むしろ、自分が言いたいことを説明するのに禅の言葉を借りてするのが便利だったから利用したということではないでしょうか。もちろん、禅の言葉から真理を気が付かされたというようなことはあったかもしれませんし、そういう意味で学んだというところはあったかもしれません。
 49歳のときに、それまでの神経症の治療成果をもとにまとめた「神経質ノ本態及ビ療法」を発表しました。これは神経症の発生メカニズムを解明し、その治療法を体系的に整理した点で画期的なもので、世界にも例が無いものであったと思います。のちに英訳もされています。これが森田療法のバイブルというべきものですが、神経症の治療や研究が進むにつれて正馬自身も修正を加えたりしています。
 51歳のときに慈恵会医科大学の精神科初代教授に迎えられ大学病院の医師としても治療・研究に当たりました。この縁で、現在では慈恵会医科大学の教授や医師たちが中心となって森田療法の真髄を踏襲し、時代の変化に対応しながら治療方法を改善・発展させています。
 森田の人柄が分かるものとしては、「森田正馬が語る森田療法」(岩田真理、白揚社)が伝記としても優れていますので、関心がある方にはご一読を勧めます。
 
<年譜概略>
1874年(明治7年)
 
高知県香美郡野市町に生まれる。
1887年(明治20年)13歳
 高知県立第一中学校入学。成績不良。この頃から常習的な頭痛があり、母からは「お前の頭痛は自分で考え出しているようなものだ」と言われ憤慨。
1889年(明治22年)15歳
 心臓が悪いと思い高知病院に通院(のちに神経質症と分かる)。落第。
1894年(明治27年)20歳
 腸チフスにかかり、落第。
1895年(明治28年)21歳
 五高入学。
1898年(明治31年)24歳
東京帝国大学医科大学に入学。心臓発作を起こす。
1899年(明治32年)25歳
 神経衰弱および脚気と診断される。落第も覚悟したが猛然と勉強。119人中25番の成績。神経衰弱恐れるに足らずという経験をした。
1902年(明治35年)28歳
医科大学卒業。巣鴨病院の医局に入る。
1903年(明治36年)29歳
 東京帝国大学医科大学助手。文化大学で心理学講義を聴講。催眠術を習得。
1906年(明治39年)32歳
 根岸病院顧問就任。
1912年(明治45、大正元年)38歳
 自宅開業も始める。
1915年(大正4年)41歳
 10年来の持病だった神経性心悸亢進症の患者を自己の体験をもって説得し1回の診察で治療に成功。
1918年(大正7年)44歳
 「迷信と妄想」など発表。
1919年(大正8年)45歳
 神経質患者を自宅に入院させ治療する。この年、神経衰弱および強迫観念の森田療法の理論と実際を確立。はじめて赤面恐怖を完治させる。
1923年(大正12年)49歳
 「神経質ノ本態及ビ療法」発表。
1924年(大正13年)50歳
 東洋大学教授就任。教育病理学を講義。医学博士号受領。
1925年(大正14年)51歳
 慈恵医大教授就任。日本医科大学医学専門学校教授就任。慈恵医大は千葉医専を断って就任した。生馬は千葉医専を断ったことを後に後悔した。
1926年(大正15年、昭和元年)52歳
 NHKで「神経衰弱の話」を放送。大きな反響を得る。
1928年(昭和3年)54歳
 日本神経学会で丸井清泰博士の精神分析批判。日本大学医学専門学校教授就任。
1934年(昭和9年)60歳
 東京大学の神経学会で丸井清泰博士と論争。「余はフロイト説を迷信と認めると極限せり」と日記に書いた。「生の欲望」発表。
1937年(昭和12年)63歳
 慈恵医大名誉教授就任。
1938年(昭和13年)64歳
 逝去。
 
<著作>(現在入手できるもの)
「森田療法全集第1巻~第7巻」(白揚社)
「神経質の本態と療法」(白揚社)
「迷信と妄想」(白揚社)
「精神療法講義」(白揚社)
「生の欲望」(白揚社)
「自覚と悟りへの道」(白揚社)
「恋愛の心理」(白揚社)

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