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よくある質問

不安や緊張が必要な場合があるとはどういうことでしょうか?

 当ケアサービスでは、不安や緊張というものは完全に取り去らなければならないものではなく、ある場合には必要でさえあるということをしばしば強調しています。
神経症で苦しんでいる方は、不安や緊張の苦しみを取り去って欲しいと訴えて来られます。ある方はこの苦しみがある限り自分は何もできないと言い、ある方はこんなに苦しいなら死んだほうがましとまで言います。こういう方たちが苦しみから逃れたい気持ちは痛いほど分かります。苦しみをすっかり取り去って爽快な気分になりたいという気持ちもよく分かります。しかし、ここでよく考えていただきたいのです。不安や緊張というものは本当に目の敵にしなければならないものなのかと。なぜ、そんなことを言うのかといぶかる方もいるかもしれませんが、実はこれが分かるかどうかが神経症になる否か、あるいは克服できるか否かの分かれ目になるからです。
一度、冷静になって、神経症を発症する前のことを思い出してください。例えば、赤面恐怖の方を例にとりましょう。いつから苦しむようになられたでしょうか。多くの方は多感な青春時代に発症されています。15歳か16歳の高校生の頃が一番多いのではないでしょうか。では、その前の中学生や小学生の頃はどうだったでしょうか。赤面ということは全く無かったでしょうか。そんなはずはありません。多くの方はもっと小さい頃から赤面があったと言います。ある方は、自分は小さい頃から赤面を気にするほうだったとか、内気であったとか言います。でも、その頃はまだ人前に出られないほど赤面に苦しむことはなかったとも言います。
では赤面があったのになぜ苦しまなかったのでしょうか。それを思い出していただきたいのです。つまり、その頃は赤面があって嫌な思いをすることがあってもそれが意識に固着することなく、いつのまにか嫌な思いが心の中から消えていたのです。それが普通で当たり前のことなのです。
ところが神経症になる方は、何かのきっかけで赤面というものを強く意識します。そして、赤面することが不都合で嫌なことだと恐れるようになります。そうなると少しでも赤面すると恐怖心が起きてきますから、ますます赤面しないように努力することになります。そして、少しの赤面でも過敏に反応するようになります。そうなると少しの赤面も敵視するようになりますから、これを無くさない限り自分はこの苦しみから解放されることがないと思い込みます。ところが人間である以上、恥ずかしいことがあったり、緊張したりすることがあると顔が紅潮し赤面することは避けられません。もちろん、百人十色というように真っ赤になる人から余り顔に出ない人まで様々です。しかし、真っ赤に赤面する人が赤面恐怖になるかというと必ずしもそうではありません。ある統計によれば赤面恐怖になる人の赤面の程度はほとんど普通の人と変わりません。ところが赤面恐怖の人に、「あなたの赤面は普通とちっとも変りませんよ」と言っても慰めにも治療にもなりません。「わたしのは顔の表面がかっかと燃えるような感じになるのです」とか、「わたしの苦しみはほかの人には分かりません」と言って、あくまでも大変な苦しみなのだと頑固に訴えます。この事情が分からないと、赤面恐怖の人に、「あなたは少しのことを気にし過ぎだ」とか、「気にするのがおかしい」などと言って、ますます自信を無くさせ悪化させることになります。とくに赤面恐怖に苦しんでいる子どもに両親がそう言って悪化させるケースが多くあります。

こうなると赤面恐怖の人の最大の関心事は憎き赤面を完全に追放することになります。雑誌などに赤面が無くなる薬などいう広告があると真っ先に買うことになります。薬で一時は良くなったように感じることがありますが、神経症や恐怖症を治す薬というものはありませんから、やっぱり駄目だったということになります。心療内科やクリニックに通って相談しても、精神科医やカウンセラーがこの恐怖症の事情に詳しいとは限りませんから、「贅沢な悩みだ」と言っていい加減に精神安定剤などを処方して済ましてしまいます。これではいつまでも治りません。
こうして悪戦苦闘しながら赤面を完全に払しょくしたいと願っているクライアントの方が相談を申し込まれてきます。そのときに、「赤面を恐れないようにすることは出来ますが、赤面を完全に無くしたり、全く感じないようにしたりすることは出来ません」と申し上げますと、最初は、必ずと言って良いほど驚き、がっかりされます。そして、「それでは症状を治療したことになりません」とおっしゃる方もいます。
そういう方に、人間にとって不安や緊張というものはある場合には必要なもので、だからこそあらゆる人間に備わった重要な機能なのだということを説明いたします。場合によって色々な説明の仕方をしますので、いつも同じではありませんが、以下のようなことを申し上げます。
人間も動物ですから生命の危機に瀕すれば必ず不安や緊張というものがあります。これは危機を認識し、その危機から逃れるために必要な機能です。これが生存にとって重要な機能であることは分かると思いますが、神経症や恐怖症の場合に起こる不安や緊張は生命の危機に直結するものではありませんから、その必要性や重要性が分かりにくく、邪魔者扱いされるのが一般です。無いほうが良いとか、取り去りたいということになります。
神経症の中でもパニック障害のような場合には、心臓が止まるのではないかとか、呼吸が止まるのではないかと激しい恐怖に襲われるものですから、上記の生存の危機に瀕した際の不安や緊張に近いものです。しかし、赤面恐怖や視線恐怖など一般に対人恐怖と呼ばれているものは、生命の危機に瀕するというよりは、仲間外れや、社会的疎外を受けるのではないかという、いわゆる社会的死に対するものです。孤島にひとり住んでいる場合には問題になりません。また、人間であるがゆえの苦しみで、動物にはありません。
社会的死への不安や緊張というものは人間であることから必然的に生じるものです。人間は道具を使い始めると同時に論理能力や予測能力を高めて来ました。より高度な道具を使うには、この論理能力や予測能力もまた高度でなければなりません。現代人はこの論理能力と予測能力が極めて発達しています。幼児期には、まだ論理能力や予測能力が未熟ですが、動物としての危険予知能力は生まれつき備わっています。ですから、親が突然居なくなったとか、急激な環境変化などがあると生命の危機を感じて不安や恐怖で泣き叫ぶことになります。しかし、まだ人間社会というものについての認識が不十分で論理能力も予測能力も発達していませんから、社会的な疎外とか孤立、それによる社会的死というものを論理的に考えることも出来ませんし、予測することも出来ません。ですから精神が未発達な幼児や小児には赤面恐怖のような対人恐怖と呼ばれるような症状は出ないのです。知的障害がある場合もそうです。ただし、幼児や小児でも人見知りというように初対面の人に馴染まないという場合があります。対人恐怖に似ていますが、これは動物にもある警戒心と同じもので対人恐怖ではありません。
人間は成長するにつれて人間社会というものを認識するようになり、その中でより良く生きて行くにはどうしたら良いかと考えるようになります。ここで論理能力や予測能力を徐々に高めて行くことになります。家庭や学校教育の中で、何か悪いことをしたり、間違ったことをしたりすると「そんなことして恥ずかしいでしょう」とか、「そんなことでは立派な人になれませんよ」とか言って叱ることがありますが、こういうことからもどういうことをすれば叱られるとか、逆に、どうすれば褒められるとか論理的に予測します。これによって人間社会の中でより良く生きて行く方法を身に着けて行くのです。と同時に、人間は論理能力と予測能力を使って将来に不都合なことは避けるようになります。例えば、勉強を一生懸命しなければ碌な学校に入れず、一生うだつが上がらないかもしれないと思って勉強するというようなことです。この場合、成績が悪かったり、勉強が思うように進まなかったりという場合には、精神的に不安を感じることになります。この不安ゆえに一生懸命勉強するということになります。つまり、この場合には不安はむしろ成績向上に良い結果をもたらすことになります。もし、勉強しなくとも、あるいは成績が悪くても不安を感じないということになったらどうでしょうか。そういう子供の将来はよほど何かの才能に恵まれていなければ、どうなるか推して知るべしでしょう。
こうして人間にとって重要な論理能力や予測能力が高まり、向上のために有効でさえある不安感情を備えるようになった青少年でもう少し考えてみましょう。この不安感情というものは身体に色々な形で現れて来ます。一般には脈拍に顕著に現れますが、発汗であったり顔の緊張であったり、中には顔が紅潮するという人もあるかもしれません。脳波を調べれば前頭葉に変化が現れます。通常、このような形で不安を感じても問題になることはありません。むしろ、勉強をしてみようとか、工夫してみようとかの向上心につながるものです。そういう意味では必要ですらあるものです。
しかし、大事な入学試験が迫って来たなどということになるとこの不安がかなり高まることになります。もし、入学試験に失敗したら自分の将来はどうなるだろうかということを論理的に予測して強い不安を感じるようになります。この不安が勉強に拍車をかけて良い成績に繋がれば良いのですが、これらが強くなりすぎて眠れなくなって成績が落ちたとか、緊張のあまり試験であがって良い結果が出なかったなどということもあります。つまり、不安というものが良い結果をもたらす場合もあれば、逆に、悪い結果をもたらす場合が生じてきます。人間というものは、不安が良い結果をもたらしたときには不安のお蔭だと感謝することはありませんが、不安が悪い結果をもたらすと途端に不安の所為にします。不安が無かったら失敗はしなかったと不安を目の敵にするのです。しかし、入学試験のように自分の人生を左右する大事件を前にして不安を感じない人というのはまずいません。東大合格間違いなしというような秀才でも、もしかしたらと考えない人はいません。皆不安を抱えながら、ある人は合格し、ある人は失敗しているのです。合否の結果について何ら不安に責任があるものではありません。
スポーツの世界でもそうです。オリンピックや世界選手権のような大きな大会になればなるほど選手の不安や緊張は想像以上のものがあるはずです。
話は逸れますが、わたしはよくイチローの例を引き合いに出します。プロ野球の世界選手権で日本代表に選ばれた彼にテレビ記者が「大舞台で緊張しませんか?」とマイクを向けたときの答えが秀逸でした。
「それはそうですよ。日の丸を背負っていると思えば緊張しないはずがない。すごく緊張すると思いますよ。でも、緊張を楽しみたいですね」
と答えたのです。
大リーガーとしてアメリカの大舞台で活躍し、緊張の場面を何度も乗り越えて来たはずのイチローであっても世界選手権のような大会になれば緊張するのです。日の丸を背負っているとなれば日本中が注目するし、万一良い結果が出せなかったとなれば日本中の批判を浴びることになりますから当然でしょう。ですから、緊張すると言ったのですが、彼も本音では緊張するのは嫌だったはずです。緊張しなければ伸び伸びとプレーして良い結果が出るに違いないと思ったに違いありません。しかし、イチローはまず緊張と言うものは避けられないものだと受け入れています。そして、それを「楽しみたい」と言っています。これは緊張を味方にして良い方向に利用しようということでしょう。普通では絶対に言えない言葉です。「できるだけ緊張しないようにして頑張ります」などというのが普通わたしたちが耳にする言葉ではないでしょうか。わたしはこの言葉に彼の偉大さを見た気がして今でも忘れることが出来ません。
少し、回り道になりましたが、わたしが言いたいのは、どんな人でも自分の人生にとって何か重要なことをしようというときには不安を感じるし、緊張も感じるのです。不安や緊張というものは人間である以上避けることが出来ないし、良い結果を出そうという場合には、それが故に必死に勉強したり、練習したりする原動力にもなり得るものなのです。不安や緊張はただちに悪いものというものでもなく、あってはならないというものでもないのです。我々ではイチローのような境地に達することは難しいかもしれませんが、その不安や緊張を前向きに利用することが出来れば、むしろ有用ですらあるのです。利用するのはなかなか難しいかもしれませんが、不安や緊張を敵視せず共存して行くことは比較的容易ですし、それが森田療法でいう克服です。
このように緊張や不安は完全に取り去ることはできないし、取り去るべきものでもありません。ある場合には有用で必要でさえあるのです。これが理解できないと神経症や恐怖症はなかなか克服できません。
 

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